生きることが大変なこの世の中で、自分の将来のために自己改革の手段として、文学による実験を企てた過去の作品の中から、偉大な作品をいくつか検討します。 この目的のためには、その作品は当然ながら、将来に向けて明るく開かれていなければなりません。従って、太宰治『人間失格』のような作品は、反面教師としての意味はもつものの、将来の若者たちへ向けて希望を与えるものではありませんから、ここでは扱いません。
しかし、暗く終わるように見える作品が、すべてダメだというわけでは無論ありません。『源氏物語』や漱石の『こゝろ』は、暗く終わると思われがちですが、決してそうではありません。作者が大きくこの世の中を変えようとした意図を読み損なってきたからです。ここでは、そのような作品で、しかも簡単に読める、中島敦の短篇「山月記」を、まず見てみましょう。
作者は何が言いたいか
作品を始めるにあたって、何が言いたいかが作者にはっきりしていない作品に、芸術的な価値のあるものはありません。たとえば、村上春樹が訳したJ.D.Salingerの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』では、作者はこの主人公ホールデンがどこへ行こうとしているのか判らない、「とにかく行けるところまで行ってみよう」とする作品だと、柴田元幸というアメリカ文学の専門家と二人で合点しています(『サリンジャー戦記』文春新書)。しかし、それでは、この作品が現代アメリカ文学の傑作の一つだとするわけにはゆきません。
行き当たりばったりこそ、現代文学の芸術性だと言わんばかりの主張ですが、200%間違った読みです。芸術の良し悪しの判断のひとつは、その作品が首尾一貫した意味をもつか(巻頭から巻末に向けて発展的に焦点が定まっていくか)どうかだからです。それを漱石は、作品のもつ<焦点的観念又は印象F>とし、また<それに付随する情緒をf>と定義しました。サリンジャーの作品も、その始めから終わりに向けて、次第に焦点が定まっていくのを、二人とも読めていないだけです。
下の二つのコラムを行き来して見ていってください。
「山月記」のモチーフ(主題)
では、この作品のモチーフは何でしょう。世の中には、作中の語句<臆病な自尊心>や<尊大な羞恥心>を取りあげて、それを「主題」とする、高校生向けの教科書もあります。「自尊心」を<F>、「臆病」を<f>とするわけでしょうが、作者が言いたいのはそんな些末なことではありません。
どうして主題が捉まらないのか
それは、作品全体をみて、首尾一貫する「焦点的観念Focus」を捕まえようとしないからです。そのためには、作品全体が、どうできているかを見渡して、ある一点(クライマックス)を見定めなければなりません。
部分的に中身を見ていても見えてこないのは、作品の全体像です。通読した後、全体をいわば俯瞰して見るしか方法はないのですが、一般にそういう見方を理論化した漱石の『文学論』は、まず作品を「形式と内容」に二分化しています。「形式」が「内容」を知るために分析可能な領域で、それ以外に「内容」を把握する方法がないことを、文学研究者も一般読者も、はっきり認識していないのが、現状です。作品の主題を掴もうとする読み方を、漱石のように理論化できていないからです。
文学作品の「かたち」を掴む方法は、短篇小説の場合、まず、いくつのパラグラフからできているかを数えることです。どんな言説についても、すくなくとも、パラグラフが意味の括りの一単位になるからです。しかし、過去に「山月記」全体で、パラグラフがいくつあるかを数えた評論はありません。この簡単で確かな方法をとらない文学作品の分析からは、正確な読みは導けません。しかし、世の国文学者たちは、そんな数など文学とは無関係だと思っているのです。しかし、文学の「かたちsignifier」の原理は、第一に数学的な論理性です。これを馬鹿にしてはいけません。
「山月記」のパラグラフ数は<21>
この数は、偶然ではありません。作者がちゃんと数えて作品を作っているからです。そこで、単純に<21>は<3>か<7>で割り切れるところから、大きく3つに作品を分ければ7パラグラフずつが意味の塊になり、また、7つに分ければ、全体は3つずつのパラグラフで意味が「ひとかたまり」になっているかもしれないと見るのです。
実際、その見方で区切ってゆくと、見事に7つの部分が見えてくるではありませんか。それぞれの意味のひとかたまりの終わりは、以下のようです。
主人公李徴の<声>というモチーフ
それぞれの意味ユニット(かたまり)に見えてくる「キーワード(モチーフ)」は<声>ということばです。それが全部で21回つかわれているのです。21のパラグラフに21回のモチーフの繰り返し!
そこが見えたら、しめたものです。おそらくこの数値の同一性が、偶然ではないと直感できるからです。実際に細かく見てみると、全体は、序:1/2/3、破:4/5/6、急:7という能楽のような「かたち」が見えてきます。そこにある<声>は、3つずつのパラグラフ(①から⑦)に、それぞれ次のように配置されているのです。
序(12):①5 ②3 ③4
破(6): ④1 ⑤2 ⑥3
急(3): ⑦3
7つの部分にある<声>は、序から急に向かって、級数的に<12-6-3>と減っているのですが、その<声>の重みは,終末に向けて大きくなって行きます。そして、最後は人間の<声>ではなく、虎の<咆哮>に変わってしまうのです。主人公は、こうして人間から虎に変身して終わります。
作者の遺言:「山月記」
その主題は、迫り来る死の前に、主人公の<声>が表現していること、それは自分の自信作30篇を後世の人たちに読んでもらうという<夢>なのです。
「知識心の自意識」、「文学者の業」、「権力闘争に明け暮れる政治の世界」などなど、国語の教科書が「テーマ」とする解釈が、どれほど的外れかがお解りでしょうか。これが、現在の日本の国語教育の実態なのです。
本当に哀れなのは、作者ではなく、正しく読んでもらえることを夢見た作者が想像もしなかった,今日の我々読者の哀れな姿です。喘息の苦しみを虎の咆哮という比喩にする、中島敦の美しくも哀しい文才を、称揚した評論が一つもありません。何という嘆かわしい読者の感性のなさでしょう。
漱石の『坑夫』から『明暗』まで、過去百年もの間、我々はそのほぼすべて読み誤ってきました。これは恐ろしい出来事です。さらに言えば、我々が誇らしく思っている『源氏物語』を、実際は日本人のわれわれがほとんど全くその主題を理解できていなかったという、過去千年の読書の歴史があります。
芥川龍之介「羅生門」、竹西寛子「兵隊宿」、三浦哲郎「とんかつ」など、教科書に名作佳作として、生徒たちに読ませている作品の「指導書」は、ほとんど全てその主題を読み違えています。恐ろしいことです。
文学作品に必須な条件:
この二つがなければ、文学ではないと漱石は言いました。
間違った解釈
F: 羞恥心 f:尊大さ
F: 自尊心 f:臆病さ
ペアになっている、こうした言葉は、いずれも
「情緒」についての意味であり、「観念F」のモチーフとしては、弱い主張にしかなりません
構造と主題の密接な関係
主題を作品から抽出する唯一の方法は、その構造(かたち)がどうなっているかを見極めること。
「山月記」の構造:
どのような「かたち」が見えるか。その意味的に括れる部分がどこかを見ること。
ふつう、作品は2つから7つ位の部分に細分化できます。ですから、どんな作品解釈でも、まず読者が見るべきは、作品のどこで意味が括れるかを、読み取ることです。この作業を怠ると、作品の主題を捉まえることに失敗する確率が大きくなります。文学は、基本的には大きさと部分的な数、つまり数学的な「かたち」の問題なのです。
3分割は無理、しかし、7つに分ければ意味がある
パラグラフを終わり方をみれば、直感的に、この作品が7つに大きく分けられる可能性が見えてきます。
ここで、ど真ん中にある4つ目が、作者が引用する中国の原作にある7言律詩であることは、偶然ではありません。その第4句に<声>という字があるのが見えてくれば万歳です。それは、この作品にはなんと主人公の<声>が<21>回、7つの部分の要所要所に置かれているのです。
作者の聞かせたい<声>
ここまで来れば、「山月記」が,本当に言いたいことが絞れるはずです。作者は21のパラグラフの中心部である11番目のパラグラフに<夢>という言葉を2度置いています。それは、自分の死後、自作30篇の「詩」が人々に読まれることを夢見ることでした。
喘息のために、死ななければならない作者中島敦は、自身の「変身」を,虎に変身せざるをえなくなった悲しみのうちに、自作の芸術が生き長らえることを夢見たのです。
しかし、どうしてぼくたちは、これほどまでに、文学作品が読めないのでしょう。
このコラムでは、この問いを、執拗に繰り返してゆきます。この問題は、我々が日本語で行う言説の有効性を、見極める必要があるからです。
このコラムの目的は、これからの世代に若者たちに、是非とも過去の誤読を糺していただく、読書の<知>をもっていただくことです。