日本語の動詞がもっている<イマ>の時間は、いわゆる「連用形」、ぼくが「将然形(まさにしかり、と事象が現実となった瞬間を捉えたかたち)」と呼んでいる音を基本形としている。四段活用では最終母音の<i>が、その指標だ。
yomi、kakiなど、ふつう<i>を最終音節にもつ。しかし、下二段動詞では、焼け(yakë)、折れ(orë)のように、<ë>(已然形[乙類]のë[=a+i])を将然形としてもつ。その理由は、焼ける、折れるなどの現象は、起こってからでなければ認識できないからだ。
これだけの基本的な理解があれば、動詞の意味の本質が子供たちにもわかるようになるのだから、それを早く教室で教えて、こどもたちが日本語動詞の語彙を殖やせるよう、<i>とか<ë>とかの動詞を、彼らの音感を通して見つけさせるようにすれば、文法の授業が退屈でなくなるのではなかろうか。
日本語は、この〈イマ〉という時間しか表現しないし、又できないということを、子供たちに知ってもらうことが、何よりの急務だろう。いや、実際、この日本語の本質を、国語の教科書がはっきり書いていないことこそ、問題だろう。ということは、現在、日本語(国語)を教えている現場の教師たちに、この認識がないというのが、そもそもの問題なのだ。
助動詞の「タ」を、〈過去〉と意味づけてはならないことを、まず認識しなければならない。「タ」は、現在完了(事象が〈イマ〉実現したという意味)でないときは、すべて〈過去の事象の<イマ>という時点での回想表現〉の意味であると、教科書が明記しないことが、そもそも諸悪の根源にある。しかし、悲しいことに、そう認識している専門の学者がほとんどいないのだ。
文学の解釈問題も、たとえば、『源氏物語』や、漱石『こころ』・中島敦「山月記」の誤読も、その原因は、そのテクストがすべて、時間の意味づけについて、〈イマ〉であることを認識しないことから起こっているのだから恐ろしい。現在、日本の大学で、古典文学を教えている教師たちが、日本語の時間表現は、常に〈イマ〉だということを理解していない。近現代文学を教えている学者に至っては、ほぼ全員が日本語にも〈テンス〉があると教えているのが現状なのだ。現代の外国語教育の悪影響が、こうした事態を招いたのだ。その誤解の根底にあるのは、明治以来の、日本語と西欧語に互換性を認めてきた誤認識だ。
これを根本から改めない限り、この問題は解決しない。
日本語には、西欧語の時間意識がないのだから、西欧語を教える日本の教師は、そこに日本語を介入させてはならない。ということは、英語を日本語を使って教えることは、意味がないどころか、間違っていると、認識していなければならない。これが鉄則でないところに、現在の日本の語学教育があって、それでは、はっきり言って、無駄どころか西欧語をわざわざ誤解させるためにやっていることになる。
明治初期にロシア語をロシア人から学んだ二葉亭四迷は、ロシア語的な文体で小説を書こうとして、挫折した。書いていくうちに、本来の日本語が立ち行かなくなってしまったからだ。両言語間の互換性を前提にしたことが間違いの元だったのだか、それに恐らくは一生気づかなかったかもしれない。
漱石が気づいていたかどうか、わからない。しかし、漱石には、命をかけても言いたいことがあった。その確たる動機は、言語的な障害が障害にならないほど大きかったのだ。『三四郎』は、そのようにして出来た。二葉亭の『浮雲』は、それに比べて主題が中途半端だったのだろう。漱石ほど書く動機が「内発」的でなかったのだと思う。漱石は、自己改造のために書くしかなかったのだが、二葉亭は、ロシアの作家のようになりたかった、ということだろう。