第一章
第一章 『源氏物語』40巻の主題
1 首尾一貫性の皮肉
小少将の作った『源氏物語』続編の最終巻(第54巻「夢浮橋」)には歌が1首(G795)だけあります。続篇冒頭の「匂兵部卿」巻にも歌は1首(G590)しかありませんから、その意味での「首尾一貫性」があります。(続篇の歌数は206首、正編の589首を足せば795首)
G795法(のり)の師とたづぬる道をしるべにて思はぬ山にふみまどふかな(薫057)
先に引用した薫の第1首(G590)――おぼつかな誰に問はましいかにしてはじめもはても知らぬわが身ぞ(薫001)――と読み比べれば、明らかに「仏道」を「しるべ」としたにもかかわらず最後に「思はぬ山にふみまどふ」薫は、何者にも「変身」していません。ですから「首尾一貫性」は保たれていますが、「変身」しないなら物語の主人公として失格です。また、薫以外の人物たち――匂宮や中君など――は、薫以上に重要な人物として描かれていませんから、結局浮舟を含めてだれも、正編で中心人物であった紫上のように主人公に相応しい人物はいないことになります。しかし、続篇の作者は、正篇の「主人公」源氏も変身しないのだから、『源氏物語』としての首尾一貫性は保たれていると読んでしまった気配があり、正篇の主人公は紫上だとして読んだ形跡がありません。
続篇の作者がその物語で言いたかったことが「思はぬやまにふみまどふ」薫を源氏の最後とパラレルな造りとしたのでは、出来損ないの物語とするしかありません。紫上の源氏(あるいは男性たち)に対する抗いが、はっきり「御法」巻に表明されたにもかかわらず、その意図を察知しない(「知らぬ」)源氏は、薫の歌と同様に次のよう詠って人生を閉じます。
G589もの思ふと過ぐる月日も知らぬ間に年もわが世も今日やつきぬる(源氏221)
この皮肉な結末――遂に「おのれ自身を知る」ことのなかった源氏という男の一生――は、続編の作者にも察知されて、表層的に続篇の「主人公」薫に通底する源氏の最後があることから、全54巻に「首尾一貫性」を保てたとして、「これでよし」としてしまったのだと言えるでしょう。
続篇の作者が正篇をそのように誤読してしまった以上、師匠の式部には弟子の誤りを糺す余地はありませんでした。後世の読者もまた、そのように誤読する可能性を式部は重々承知していたと思われます。
「女性の女性による女性のための物語」は、このようにして世に出、ほぼ千年間の誤読が式部にとっては想定内だったことになります。冒頭歌――G001限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり――が主題に関わって意味をもつこと、40巻の主題は女性にとって「生きること」が重大な問題であることを、千年間も男性の横暴に翻弄される女性の問題として認知されることがなかったのです。おまけに、千年にわたる誤注釈の歴史のなかでも、いまだに誰も気づいていないことの一つに「柏木」の問題があります。
17歳の源氏が物語で行動を開始する第2巻「帚木」は、「まぼろし」のように消えてしまう特性をもつ木が表題になっています。3歳で母(桐壺更衣)をなくした源氏にとって、「ははき(帚)-木」が「母-木々」となって、この物語では失われた母のイメージを追い求め、その度に消えてゆく「木々」の象徴性をもつのです。また、「木々」は動こうにも動けない、当時の女性の象徴でもありました。『源氏物語』正編に現れる木々――桐・葵・松・真木・藤など――は、すべて女性の本質を読者に想定して貰おうと作られているのです。
ですから、40巻の最終段(第5段)の第3巻「柏木」では、各段の3巻目におかれた空蝉・花散里・藤壷[薄雲]・玉鬘[篝火]と同じ経糸上に置かれた「柏木」は、落葉宮が主人公(モチーフ[制作動機])であって、女三宮と密通する男(衞門督(えもんのかみ)、伝統的に「柏木」と注釈本でよばれる男)ではありません。
「柏木」巻の末尾近く、衞門督の死後、夕霧が一条宮に落葉宮を訪問する場面――
柏木と楓との、ものよりけに若やかなる色して枝さしかはしたるを、(夕霧)「いかなる契りには、末あへる
頼もしさよ」などのたまひて、忍びやかにさし寄りて、
G510ことならばならしの枝にならさなむ葉守の神のゆるしありきと(夕霧21)
G511柏木に葉守の神はまさずとも人ならすべき宿の梢か(落葉宮1)
夕霧には37首の歌があり、落葉宮には9首あります。「ものよりけに(ひきつけられるように)」柏と楓がお互いに枝を若々しく交わしていると描写されていますが、夕霧の目が柏と楓をそのように見ているのです。「柏木と楓」という語順からも「柏木」が<主(落葉宮)>で「楓」が<従(夕霧)>であるはずで、その逆ではありません。「葉守の神」とは、柏の木は枯れても葉が枝に残ることから、「葉を守る神」が宿っているという言い伝えがあります。ですから、「柏木」が象徴するのは一条宮の主である落葉宮であって、衞門督ではありません。
しかし、「ゆるしありき」というのは、「柏木(衞門督)」の許し、すなわち「貴女の亡くなったご主人の許しがあった」として親しくおつきあい下さいと、中世以降今日まで注釈されています。その根拠は、衞門督が臨終の際、親友の夕霧に妻をよろしくと言い残したからです。
「ことならば(おなじことならば)」とあるのを、「ご主人から許された身だから」とそれこそ身勝手に解釈するのは、いくら身勝手な夕霧でも無理です。大体、落葉の宮は衞門督が臨終場面で夕霧に何と言ったかを知りません。この場面は、「末あへる頼もしさ(枝同士が重なり合う頼もしさ)」を理由に、「(それと同じ)「ことならば」と、(楓の立場にある)夕霧が勝手に理由づけた上で、強引に落葉宮(柏の立場)と「ならさなむ(慣れ親しみたい)」というのです。こうした文脈から、「葉守の神」が宿っているのが「柏木(落葉宮)」であって、一条宮邸にある柏の木が、この歌の時点ではすでに亡くなっている「衞門督」を象徴するはずがありませんし、ましてや女三宮と不倫した「衞門督」が「神」という立場を獲得できるはずもありません。
現代注釈書すべてが「柏木」を衞門督と同定しているのは、定家の時代以降、『源氏物語』に頻出する「木々」が平安時代の女性が行動の自由を奪われた状況の象徴的な表出であると読めた人がいなかったからです。実際、「柏木に葉守の神はまさずとも(わが家の柏木に葉守の神がいらっしゃれば勿論のこと、たとえいらっしゃらなくても)、その枝は貴方と慣れ親しもうなどと決していたしませんよ」と、毅然たる態度で夕霧を拒否しているのが落葉宮の歌(G511)です。作者式部は、その昔(「常夏」巻)、夕霧に向かって源氏が「朝臣や、さやうの落葉をだに拾へ」と言った戯れ言が、遠く「柏木」巻にエコーしているのです。そのように蔑(さげす)まれた「落葉」ではない毅然とした態度をこの宮の本性として、作者は「柏木」巻で描こうという意図をもっています。「葉守の神」が宿る「柏木(一条御息所の娘)」は決して「落葉宮」などと呼ばれてはならないことを。
実際、テクスト中にこの女性が「落葉宮」などと呼ばれることは一度もありません。後世の注釈が賢しら顔につけたニックネームですから、一条御息所の女宮を蔑んで見てはなりません。「柏木」という巻名が象徴するのはこの女宮であって、その亡夫衞門督などと同定したのでは、作者の意匠が崩壊します。さきに指摘したように、「柏木」巻は「空蝉」巻とパラレルな関係にあります。源氏が強引に空蝉を手に入れたことを踏まえて、次世代の男について、源氏の息子である大将は、「柏木の宮」を空蝉のように扱ってはならないということです。こうした物語の意図を把握できなかった古注釈も、それを引き継いできた現代注釈本のすべては、全く式部の「主題」を辿れていないのです。物語の最終段階にきて、作者がそこまで営々と築きあげたき「木」の象徴性を、ここでぶち壊したのでは物語の首尾一貫性など望むべくもありません。こうした注釈のありようは、『源氏物語』の正しい読みにとって、本当に由々しい事態です。
物語の全5段の第3巻には、繰り返しますが、不幸な女性たち(空蝉・花散里・藤壷・玉鬘・一条御息所女)が点綴されています。出家した空蝉・藤壷はともかく、花散里・玉鬘・「柏木の宮」は、それぞれ続篇で男たちの倫理を変革すべく生きる女性たちにならなければなりません。衛門督は『源氏物語』で唯一人、物語の中で死ぬ若い男です。夕顔・葵・六条御息所・藤壷というように、女性を死に追いやった源氏の咎を一身に引き受けたかのように、正しい倫理観の持ち主です。当然ながら、「柏木の宮」をないがしろにした「衛門督」は、葵をないがしろにした源氏の罪をも負ったのです。
2 全5段各段の第1巻――「桐壺」「葵」「絵合」「螢」「藤裏葉」、その関係性
式部が構造的なヒントとした五言律詩の最初の5字にあたるのは、『源氏物語』40巻第1段から第5段のそれぞれ最初の巻「桐壺」(第1段)、「葵」(第2段)、「絵合」(第3段)、「螢」(第4段)、そして「藤裏葉」(第5段)の5巻です。『源氏物語』の主題を大きな流れの中で把握する一つの手段は、この5巻にどのような関係性――連続性と一貫性――があるかを検討することです。
たとえば、二つの結婚――「桐壺」巻末での源氏と葵が結ばれ、また「藤裏葉」巻頭で夕霧との雲居雁結ばれる――が第1世代と第2世代の始発を告げることで、第1段(導入部)と第5段(終結部)の首尾一貫性が確保されていることです。ですから、「藤裏葉」巻で第一部が終わるとすると、夕霧の結婚はその後の物語からも関係性が薄れてしまうので、この一事からも、「藤裏葉」はその後に続く意味が無視できないはずでしょう。
第4段第1巻「螢」では、源氏が玉鬘といわゆる「物語論」をします。虚構の物語の中にこそ人の世の真実が見えるとする、二人の議論が『源氏物語』の真相(深層)に関わらなければ、そもそも『源氏物語』に真実、ひいては主題がないことになって、物語はただの慰みごとになってしまいます。過去千年間、この「螢」巻が<破の急>段(第4段)の冒頭に置かれていることを指摘した人がいません。「藤裏葉」巻の8巻前に、式部はきちんと<作り物語>の「構造signifier」が物語を作る時に必須な要件であることを提示しているのです。ですから、『源氏物語』40巻の「意味(主題)」を<もののあはれ>などとしか読み取れない『源氏物語』論はナンセンスです。源氏と玉鬘は、物語には<もののあはれ>が隠されているなどという議論をしているわけではありません。
現代注釈史の原点となったのは、池田亀鑑の『源氏物語大成』(八巻1956)ですが、池田が「藤裏葉」を『源氏物語』「第一部」の終結巻と措定したために、「第二部」の「若菜」から「幻」巻までの「意味(存在理由)」から「六条院」がすっぽりと抜け落ちてしまい、「桐壺」巻から「幻」巻までの統一性が不透明になってしまったのです。その理由は、「藤裏葉」巻の末尾に描写された、朱雀院を伴った今上帝の六条院への行幸を「第一部」の大団円としたために、六条院の真の存在理由がそこまでで終わってしまったかのように解釈されたからです。
六条院は、物語後半の最初の巻である「少女」(第21巻)で造営され、その活動が始まっています。ですから、六条院こそ物語後半の「場」として、最終「幻」巻まで重要性を帯びていなければならないのです。池田が「藤裏葉」巻を第一部の終わりとした理由のひとつは、「御法」巻の終わりに紫上が二条院で亡くなったと誤読してしまったからです。実際は、法会のために紫上を含めて参加者全員が2日間だけ二条院に出かけただけなのに、古注釈以来ほとんどの読者が,法会のあと紫上が二条院に居残ったと解釈してしまったのです。
その上、「匂兵部卿」に始まる「第三部」も紫式部の作としたために、第二部から第三部への展開もその連続性を前提にしたのです。本来不連続な続篇を無理矢理統一性のあるものと読まざるをえず、結局本来統一性のある「主題」が全54巻にあるはずがないにもかかわらず、たとえば宣長の「もののあはれ」のように漠然とした結論しか導き出せなくなってしまいました。
日本の学問の悪しき権威主義が、『源氏物語』研究の過程でも多大な障害となり、池田の『大成』が大きな縛りとなって、過去65年間、『源氏物語』を本質的に変える見方が見つけられませんでした。六条院への行幸を物語の「第一部」の終着点として切り分けると、そこまでの33巻は、「幻」巻(第二部の終わり)までの7巻とのアンバランスを欠くことが明らかに避けられません。しかし、「第一部」と「第二部」を繋ぐ論理が、「構造」的に追求できないことを指摘するする研究者が現れなかったということは、誰にも『源氏物語』のみならず、そもそも文学の「構造signifier」の重要性がわかっていないことを、露呈してしまったのでした。
「第一部」という切り口の最大の犠牲者は紫上です。せっかく六条院の主人公として設定されたにもかかわらず、第二部では物語の隅に追いやられてしまったからです。源氏が『源氏物語』の主人公の座から引きずり下ろされる物語の後半が、台なしになってしまったのです。結局、池田の恣意的な判断が災いして、『源氏物語』40巻の「主題signified」が「雲隠」してしまったことになります。「構造signifier分析」を疎かにすると、「意味(主題)signified」の抽出ができないという、文学分析の原理が文学研究者たちの共通理念でないからです。本格的な文学論がこのようにおろそかにされる状況が延々と今日まで続いています。
物語を5段階に発展させる動機(モチーフ)が各段の第1巻に置かれているとすれば、第3段の第1巻「絵合」という巻名が示唆するのは、「合わせ」という統合の手段です。第1段の8巻と第2段の8巻が合わせられているとみれば、第3段の意味はそこまでの16巻がもたらすもの、すなわち、テーゼ・アンチテーゼを「合わせ」て統合されるジンテーゼであるはずです。ですから、第1段の最重要人物が「若紫」(第5巻)の紫君ならば、第2段の最重要人物はその第5巻に導入される明石です。そこで、第3段で統合されるのがその第5巻(「少女」)での六条院造営による4つの町の主要人物たち――紫上・秋好・明石・花散里――なのです。源氏は自分の都合のいいように4つの町を造ったはずなのですが、それぞれの町の女性たちが、次第にその心をお互いに近づけてゆき、結束を固めて男性たちの横暴に立ち向かう一つの勢力となる礎えを築いてゆくのです。
その皮肉な結果は、紫上が亡くなっても男たちには誰にも全く見えないので、源氏も自分がとった行動が、その社会をひっくり返す要因になるなどと知ることもなく死んでいきます。女性にとってこの「憂き世」が大転換するには数世代、いや数十世代を経なければならないことを、作者式部は知っていました。第三世代の若者の代表であるはずの三宮が続篇の主人公にならないことが明らかな宇治十帖では、三宮は薫の後塵を拝する色男にしか造形されませんでした。続篇の作者の正篇の読みが、正篇の「真実」に迫れなかったからです。
第4段の第5巻には「行幸」という題が与えられています。そこでは源氏の言いなりにならなかった玉鬘が主人公です。何でも源氏の言いなりになった夕顔の娘が、地方生活を経験して女性としても成長した結果、源氏を批判できる人になったのです。しかし、結局髭黒に絡め取られることから、女性一人では男の横暴に対応できないことも認めざるをえません。こうした物語の経緯から、第5段の第1巻「藤裏葉」に六条院へ行幸する冷泉帝と朱雀院がいて、第5段の結末をどう造るかは、式部によって計算し尽くされていました。「御法」巻での法会が六条院の女性たちの結束を固め、男性社会を根本的に変える力となることを、『源氏物語』40巻がその「構造signifier」性によって明らかにしている、と読めない『源氏物語』論は不毛です。
3 全5段各段の第2巻――「帚木」「賢木」「松風」「常夏」「若菜」、その関係性
五言律の「構造signifier」性から、「桐壺・帚木」「葵・賢木」「絵合・松風」「螢・常夏」「藤裏葉・若菜」というように、「対」になるイメージで「起承転結」の「起」部分の論理が想定されます。ですから、それぞれの2巻はその連続性が顕著で、くどいようですが、「藤裏葉」と「若菜」は「新芽」というイメージで連続性を保っているために、この両巻を切り離してはなりません。雲居雁や女三宮が新しい世代の女性たちで、第5段の第1・2巻に据えられているのです。母のイメージを求めて「帚木」では空蝉というミスマッチが導入されるように、夕霧と雲居雁の結婚(「藤裏葉」)のあとでは、女三宮が源氏とのミスマッチとして「若菜」で問題化するわけです。そうしたミスマッチの最初には、源氏・葵という夫婦が物語全体の「動機(モチーフ)」として置かれています。ですから、「絵合」の冒頭では、朱雀と秋好が結ばれなかった不幸が問題にされてもいます。
また、女性の「知性・感性」を問題にするのは 「葵・賢木」の2巻であり、「観念Fと情緒f」のような組み合わせを問題視する「芸術」の問題が人生の問題でもあるところから、「絵合・松風」があると言えるでしょう。したがって、『源氏物語』にとっての真実とは何かを問題として提起するのが「螢・常夏」だということになります。
このように提起された問題を物語の「構造signifier」として明瞭化する手段として、式部がとった方法は五言律や和歌の数理です。特に「情緒f」面の論理として、作者は歌の数理をテクストそのものに反映させるという超絶技巧を用いました。その最初の例が物語の冒頭に置かれ、さきに引用した第1首からの5首です。冒頭歌の「いかまほしきは命なりけり」という、物語の主題に関わる桐壺更衣の絶唱が、「鈴虫」の声ひいては『源氏物語』の女性の「声」として、5首の中心(第3首)に据えられています。これが偶然ではない証拠として、物語第5段の第5巻に「鈴虫」巻として反響しているのです。また、『紫式部集』の最初の5首が一括りの「意味signified」をもっていることを、さきに見ました。
G003鈴虫の声のかぎりを尽くしても長き夜あかずふる涙かな(命婦)
S003露しげき蓬が中の虫の音をおぼろけにてや人のたづねん(式部)
これが「芸術作品」の「構造signifier」として見えたときに、「たづね」るべきはそうした「作品」の「意味(主題)signified」だということです。こうしたことが発見できるかどうかが、作品の読みに必要な決め手だということになります。
「桐壺」巻には歌が9首あり、「帚木」巻の「雨夜品定」にも9首が詠まれますが、そこまでの18首のあとで、源氏の最初の歌が19首目に置かれています。
G019つれなきを恨みもはてぬしののめにとりあへぬまでおどろかすらむ(源氏001)鶏の声が源氏の空蝉に対する暴挙に抗議して、物語全体の源氏に対する警告として響いています。作者が221首ある源氏の歌の第1首を物語の第19首目に置くという「構造signifier」が、全40巻の歌589首の数理(589=31x19)を揺るぎないものにします。なぜなら、これが偶然である確率は、<combin(368,18)/combin(589,18)*221/571=0.0000694>となり1万分の1以下ですから、偶然ではありえません。作者が意識的にこの歌をここに配置したとしか考えられないわけです。
五言律の最初の10字がもつ「対句」性と関連して、物語の男女関係が当然「モチーフ(動機)」の意味をもちます。「帚木」巻の冒頭のいわゆる「雨夜品定」では、4組の男女がそれぞれ贈答歌を詠みます。その最初のペア――
G010手を折りてあひみしことを数ふればこれひとつやは君がうきふし(男)
G011うきふしを心ひとつに数へきてこや君が手を別るべきをり(女)
お互いに逢った回数を指折り数えるという動作が、物語の始発点で問題にされています。これは作者が歌数に意識的であることの謂いであり、読者にも意識的であってほしいと訴えていることでもあります。第19首に源氏の第1首を置くことが紛れもない芸術的な処理方法なのですが、物語が始動することの象徴的な指標として欠かせない作業だといえます。ということは、とりもなおさず、589首という物語全体の数理が、『源氏物語』40巻の前提になっているわけです。そこには当然<589=31x19>という数理が働いているからです。40巻を書き上げて数えたらたまたま589首になったということではなく、書き始めたときに、物語全体を589首の歌で詠いあげようと構想した証しです。そのもう一つの証拠は、最終「幻」巻に源氏の歌が19首あることです。物語中で源氏の歌が集中的に現れる巻です。これも確率計算をすれば、<combin(66,19)*combin(202,7)/combin(268,26)>=4.424086269899...x10^-8(0.00000004424...)、つまり100万回に1回も現れない確率となって、作者が意図的に作っていることが証されるのです。
(この確率計算を解説すれば、「源氏の歌66首のうちの19首、その他の人物たちの歌202首のうちの7首が、最後の「幻」巻の26首に現れる確率」を計算する数式です。<combin>は<組み合わせ>の意味で、例えば、「8角形の手回しの箱の中に、白い球が66個、赤い球が202個あるとき、この<ガラポン>を26回回して、白が19個,赤が7個出る確率」です。)
4 各段の第3巻――「空蝉」「花散里」「薄雲」「篝火」「柏木」、その関係性
各段8巻の3巻目に特徴的なのは、『源氏物語』の中で極端に短い巻――「空蝉」「花散里」「篝火」――が同じ「経糸」(五言律の第3列)に並んでいることです。そして、その他の2巻――「薄雲」「柏木」――で藤壷・衛門督の二人が亡くなります。この二つの死は源氏の行動倫理に深く関わり、藤壷との情事が露見せずに終わったものの、「篝火」では玉鬘との関わりが露見一歩手前まで進みます。「柏木」では、若い頃の源氏・藤壷と相似形の情事の結果、衛門督がその咎を贖って死にます。ですから、「空蝉」など短い3巻は、作者がその重要生を強調するために、敢えて短く作ったと考えられるでしょう。
第25「螢」巻で「物語」に隠される「まこと(真実)」について玉鬘と議論する源氏ですが、手軽に考えている空蝉・花散里・玉鬘などから批判される立場になることなど夢想だにしていないのです。なかんづく源氏に意のままに使われるようにしか見えない花散里は、物語の最終局面では紫上亡き後六条院を纏める中心人物として活躍が期待されます。「御法」巻で二条院を去る前に、紫上が将来の六条院に対するメッセージを花散里に発するからです。
G554絶えぬべきみのりながらぞ頼まるる世々にと結ぶ中の契りを(紫上22)
G555結びおく契りは絶えじおほかたの残りすくなきみのりなりとも(花散里5)
精神的に安定し物事を達観できるところから、第三世代の六条院のマネージャーとして,男性社会に抗う女性の砦を統括する立場が物語の早い段階で想定されていたことになるでしょう。また、花散里の前に空蝉を登場させていることも、作者の意図がその場限りのものでなかったことを物語っています。本来動く自由を剥ぎ取られている女性の第一走者として、空蝉は見事にその任をはたしています。「脱皮による変身」を物語の初頭に据えたことは、女性の将来に期待できるからです。
また、「柏木」巻が一条御息所邸の指標として、その娘(注釈史では一般に落葉宮と俗称)が六条院の「外郭」にあるサポーターの役割を、花散里が面倒を見た玉鬘などと共に果たすことが続篇では期待されます。「夕霧」巻での源氏に対する抗いが、将来に繋がる勇気ある行動として、この「一条御息所女」にも期待される作りとなっています。「一条」と「六条」は、その位置関係からも「内裏」の外郭にある勢力として、男性社会に反旗を翻す立場の意味をもつのです。
経糸第3糸(第3巻)の藤壷(「薄雲」)の存在は、かくしてその前後に関わる女性たち――空蝉・花散里・玉鬘・一条御息所娘――を束ねる(統括する)でしょう。空蝉・藤壷は出家の身ですが、花散里・玉鬘・一条女はこの世に留まって、源氏の次世代にとって紫上の遺志を引き受ける女性たちなのです。
5 各段第4巻――「夕顔」「須磨」「朝顔」「野分」「横笛」、その関係性
経糸第4糸(巻)の夕顔・朝顔には明確な対比があり、夕顔は誰も拒絶しない従順な優しい心の持ち主、反対に、朝顔は源氏の甘言を何度も拒む女として設定されています。また、「須磨(朧月夜)」・「野分(紫上)」にも源氏の世代vs.夕霧の世代という対比関係が想定されます。朝顔は「若菜上」巻で、また朧月夜は「若菜下」巻で共に出家し、紫上は最後まで出家を源氏に拒まれる存在です。「横笛」巻が象徴するのは衛門督ですが、「野分」巻にかかわった夕霧は衛門督と共に源氏の次の世代の代表です。特に衛門督は笛の名手とされ、音楽を奏でる能力は,行動の倫理性の象徴としての意味をもっています。ですから。衛門督が正常な倫理観の持ち主として、源氏の行動倫理を批判する男になりえています。
夕顔が死ぬのは六条御息所の嫉妬心によることと、朧月夜との情事が露見して源氏が須磨に流されることから、源氏は己の行動倫理を糺さなければならないわけですが、独りよがりな行動がいつまでも続くところで、朝顔があらためて源氏の倫理の批判者になるのです。象徴的に、「朝顔」巻末尾に置かれている、亡くなった藤壺が三途の川で迷う源氏の夢こそ、作者は源氏の行動倫理を自ら修正するべく配置しているのですが、源氏は自己改革(主人公として変身)の機会を逸してしまいます。
G321なき人をしたふ心にまかせてもかげ見ぬみつの瀬にやまどはむ(源氏155)
源氏の潜在意識は、いまだに三途の川で迷い成仏できない藤壺が源氏の行動にあることを訴えているはずで、物語前半の末尾にこの源氏の歌を置くことの重大性を、式部は明らかに意図しています。それは、この歌を遡ること100首目のG221が示唆しているからです。
G221あはと見る淡路の島のあはれさへ残るくまなく澄める月かな(源氏111)
この歌は明石の対岸に見える淡路島が月の光によってその「あはれ(美しさ)」をはっきりと見せているというのです。「月」は暗い夜を明るく照らす存在であるはずの源氏の本来の姿です。ですから、物語はここで、源氏のあるべき姿を自ら認識したかのように、自己を変革する心の頂点に立っている謂いでなければなりません。この時点で、源氏の歌100首がほかの人物たちの歌100首と同数になるように、式部は歌を配置します。当然源氏の歌を『源氏物語』40巻に221首作ることを想定しているからですが、それならば、この淡路島を詠う歌(G221)は源氏の良心・本心を宣言していなければならない道理です。
因みに、ここでも源氏の歌100首が他の人物たちの歌100首と同数になる確率を計算してみましょう。ガラポンで白玉が221個、赤玉が368個あるとき、200回箱を廻して白が100個赤が100個出る確率は、<combin(221,100)*combin(368,100)/combin(589,200)>=3.5021878...*10^-6(0.0000035021...)10万分の1以下となりますから、ここでも作者の意図が明らかだと言えます。[具体的な計算はExcelでもできますが、<WolframAlpha>という、ネットで簡単に計算してくれるサイトでは、上記の数式を書き入れるだけで計算してくれます。]
淡路の歌(G221)から丁度100首目に、さきのG321、すなわち源氏が藤壺の夢を見る歌を置いているのです。源氏の歌としては155首目ですから、数理的に<155=31x5>となって、ここは源氏の半生の、いわば恋の人生の転換点となるべき場面となっていることになります。言い替えれば、源氏の恋の物語は、第20「朝顔」巻末尾、つまり『源氏物語』の中間点(折り返し点)で終わっているのです。
源氏が朝顔にその恋を拒まれる「朝顔」巻は、源氏にとっての転換点、自身が物語の「主人公」として、変身を遂げるきっかけとならなければならなかったのです。ところが次の「少女」巻では、五節のような純な心の持ち主として生きるどころか、六条院という4つの町にそれぞれの女性を囲うあらたな勝手気ままを始めるのです。
この事態を物語の転回点として明示するために、式部は589首のうち321首を「朝顔」巻の終わりまでに作り、『源氏物語』の「情緒f」の論理を証したと言えます。さきのような確率計算を、この時点でもしておきましょう。ガラポンで白が221,赤が368(つまり全589首)あるとき、321回廻して白が155,赤が166出る確率は: combin(221,155)*combin(368,166)/combin(589,321)=1.3573...x10^-9 (0.0000000013573...) つまり、1億分の1以下となりますから、歌を平均的に配置したのではありえないことです。式部は物語の折り返し点で、普通では考えられないように歌数をならべていることになります。この異常さが『源氏物語』の主題の「情緒f」だということです。密かに作者は、物語の折り返し点で、源氏を主人公の座から引きづり下ろしているのです。
ここで続篇(13巻)の歌と比較してみます。続篇には206首あり、一番歌数の多いのは、薫の57首です。二番目は匂宮の24首ですから、薫を主人公としていいでしょう。全13巻の中間点を第7巻「早蕨」とすれば、その末尾までに歌が109首、薫の歌は31首あります。そこで、薫の歌が中間折り返し点まで31首、その他の人物たちの歌が78首になる確率は、<combin(57,31)*combin(149,78)/combin(206,109)=0.11987...>となりますから、自然な歌の配置です。因みに後半の6巻は、薫の歌が26首、その他の人物たちの歌が71首ありますから、確率計算をすれば、<combin(57,26)*combin(149,71)/combin(206,97)=0.11987>で、当然ですが上の計算と等しくなり、続篇の作者は、ごく平均的に物語の中に歌を作ったと言えるでしょう。
さきに述べたように、正篇では、G221から丁度100首目のG321に、源氏が藤壺の夢を見る歌を置いています。源氏の歌としては155首目ですから、数理的に<155=31x5>となって、ここは源氏の半生の、いわば人生の転回点となるべき場面となって、源氏の歌はこのあと66首しかありません。言い替えれば、源氏の恋の物語は、「朝顔」巻末尾、つまり『源氏物語』の折り返し点で終わっているのです。
源氏が朝顔にその恋を拒まれる「朝顔」巻は、源氏にとっての転機、自身が物語の「主人公」として、変身を遂げるきっかけとならなければならなかったのです。ところが次の「少女」巻では、五節のような純な心の持ち主として生きるどころか、六条院という4つの町にそれぞれの女性を囲うあらたな勝手気ままを始めるのです。
正篇と続篇では、歌の配置が全く違うのです。まさに天と地のちがいですから、この一事を見ても、正篇と続篇ではテクストの「構造signifier」が全く違うのです。正篇の後半では、読者の想定を超える事態が生じます。歌の数を見るだけでも、後半に源氏の歌は66首しか残されておらず、しかもそのうちの19首は最終巻「幻」に集中しています。ということは、後半(第21「少女」巻から第39「御法」巻まで)は、源氏の歌がわずか47首に激減してしまうのです。さきに、源氏の恋の物語は前半で終わったとしたことが、歌の数からも証されます。
6 各段第5巻――「若紫」「明石」「少女」「行幸」「鈴虫」、その関係性
「起承転結」の意味に並んだ8巻に纏められた各「段」の第5巻は、「転」部の前半で、ここに『源氏物語』の女性たちのうち、最も重要な5人が並びます。紫君・明石・五節(藤典侍・雲居雁)・玉鬘・女三宮です。最後の女三宮だけが「鈴虫」巻で出家しますが、紫上の死後、あとの女性たちはそれぞれ男性の暴挙に抗って闘う女性たちに、それぞれが「変身」する可能性をもつ人たちです。玉鬘は黒髭に仕留められますが、その将来は続篇の主要人物としての活躍が期待されますので、続篇の玉鬘が「竹河」巻で、薫が「紅梅」巻で、「匂兵部卿」巻の匂宮とともに、続篇の「構想」化段階でその方向性を作者(小少将)によって模索されたと思われます。しかし、さきに述べたように、続篇の作者が正篇の「御法」巻を読み損ねたため、続篇の「構造signifier」化に失敗しています。
「少女」巻の重要性は言うまでもありません。<乙女>の純心表出が四日にわたる少女楽の行事であり、特に四日目(辰の日)の豊明節会(とよのあかりのせちえ)では五節の舞が舞われます。源氏が「幻」巻で最後に「己を知る(自分が何者であったかを悟る)」歌を式部は第584首に置いています。
G584宮人は豊の明(あかり)にいそぐ今日ひかげも知らで暮しつるかな(源氏217[31x7])
源氏の一生が「豊の明」と無縁であったと最後に認識する歌を、作者は源氏の歌の結論部分に置いています。残る4首(源氏218-221)は「辞世」です。その初めと終わりの歌――
G585死出の山越えにし人をしたふとて跡を見つつもなほまどふかな(源氏218)
G589もの思ふと過ぐる月日も知らぬ間に年もわが世も今日や尽きぬる(源氏221)
「御法」巻で中宮に看取られて亡くなる紫上に最後に声をかけたのが明石中宮です。
G558秋風にしばしとまらぬつゆの世をたれか草葉のうへとのみ見ん(明石中宮4)
中宮がこれからの自分の役割を認識した歌です。自分は「秋風(政治的な圧力)」にも微力ながらも抗って生きるという宣言文です。
紫上が亡くなったあと、弔いの歌を贈る最初の女性が秋好中宮です。
G562枯れはつる野辺をうしとや亡き人の秋に心をとどめざりけん
今なんことわり知られはべりぬる(秋好中宮7)
秋好の歌は、「自分は春が好きと仰った紫上ですが、秋(わたし)にもお心をとどめてくださった、その訳(ことわり)を私は今確かに知りました」と、わざわざ歌のあとに「余情」が語られています。この意味は、秋好も紫上が願ったこと(『源氏物語』の主題に関わって重要な「憂し」の世を改革したいという思い)を受け止めたことを表明する歌になっているのです。
このようにして、「鈴虫」が『源氏物語』で象徴するのは、さきにも述べたように、物語の最初の5首の中心にある第3首の「鈴虫」――鈴虫の声のかぎりを尽くしても長き夜あかずふる涙かな(命婦)――が女性の声です。ですから、「鈴虫」巻最初の歌――
G522おほかたの秋をばうしと知りにしをふり棄てがたき鈴虫の声(女三宮7)
というように、女三宮も反応しています。私も皆さんとこの憂い世に抗いますというのです。
同様に、さきほどの「幻」巻では、明石と花散里がそれぞれの「声」を発しています。
G570雁がゐし苗代水の絶えしよりうつりし花のかげをだに見ず(明石22)
G571夏衣たちかへてける今日ばかり古き思ひもすすみやはせぬ(花散里6)
衣替えの時期を逃さず女性たちが団結する時が来ているのです。これからの六条院の主導者となる花散里は、「古き思ひ(紫上と密約した男たちへの反逆)」を「進ませよう」と、ここで宣言しているのではないでしょうか。それに対して、源氏は――
G577つれづれとわが泣きくらす夏の日をかごとがましき虫の声かな(源氏211)
と、全く聞く耳をもっていません。物語の最後まで、源氏には女たちの声が「かごとがまし」(非難、不平不満、いいがかりのようだ)というのですが、皮肉にも、「その通り!」と言いたい女性たちの声をはぐらかすことしか知らないのです。<571/577>という数がともに素数であることを作者は認識していたように思われます。
「(鈴)虫」の声は、物語の声です。この声を「かごとがまし」と聴いたのでは文字通り「お話(物語)」になりません。
7 各段第6巻の5巻――「末摘花」「澪標」「玉鬘」「藤袴」「夕霧」、その関係性
全5段のそれぞれの展開部を纏めつつ結論部へと橋渡しする巻々であるため、共通項として括れる要素が少ない5巻です。「末摘花」では夕顔を起点として源氏が末摘花・若紫と関わった結果、物語後半では玉鬘の物語に発展します。また、「澪標」では、朧月夜を起点として明石・六条御息所などが関わった結果、冷泉帝の即位などでより複雑化した源氏の人間関係へと展開します。九州から帰った玉鬘が源氏によって父・恋人・典侍など混濁した関係に置かれた結果、玉鬘の身辺に夕霧・衛門督・螢宮・髭黒などが絡まって複雑化する事態が「藤袴」で扱われます。結局源氏の恋の物語は玉鬘の出現によって空無化し、源氏は物語の主人公の座から転落するのです。衛門督の死後「夕霧」巻では、源氏の罪をを繰り返した衛門督の咎を認識できない夕霧が、行動倫理を改めえない第二世代の代表格として残ることになります。
8 各段第7巻の5巻――「紅葉賀」「蓬生」「初音」「真木柱」「御法」、その関係性
8巻の纏め部分、「起承転結」の「結」部の前半です。「紅葉賀」では藤壷に源氏の子(冷泉帝)が誕生し、葵・紫君には知られないまま源氏の身辺が複雑化してゆきます。「蓬生」では、地方行きを拒んで自分なりに生きようとする頑なな末摘花を源氏が援助します。この次の段では、空蝉の出家が物語られますので、第1段ではマイナーな二人の女性に一応の結末をつけていることになります。「初音」は六条院の四季を語る最初の巻ですから、物語後半の源氏の第二世代の物語が雲居雁・玉鬘によって導入され、具体的に語られる始まりになっています。春の2巻(「初音」・「胡蝶」)がこの第3段の終結部を占めるのは、より重要な「螢」(熱い恋を象徴する夏)巻を第3段の第1巻に置きたい作者の構想があるからです。ほぼ物語の後半の始まりの段(「破の破」)ですが、物語の神髄、すなわち「物語のまこと(真実=主題)」は、作者の物語の動機であることを、どうしてもこの段階で明らかにしておきたいという作者の想いがあるのです。
「初音」巻では、源氏が明石・花散里と六条院の町を巡り、二条東院に移った末摘花・空蝉をも訪れて、源氏の行動が一見非の打ち所がなく見えています。
しかし、次の「真木柱」では、玉鬘は巻頭ですでに髭黒の妻になっていて、元の妻との間に一悶着が起こります。「真木=槇」ですから、動く自由がないという社会的な制約をもつ女性の真実(現実)がこの巻で最終的に顕在化するのです。「帚木」に始まる女性の宿命的な社会的状況がこの巻で具体的に語られますが、作者はこの巻が第31巻であることも意識しています。この巻には歌が21首あり、その第19首――
G425巣がくれて数にもあらぬかりのこをいづ方にかはとりかへすべき(髭黒4)
源氏が恨みがましく玉鬘に贈る歌に代返する髭黒は、かなり辛辣に源氏に対しています。余談ですが、「数にもあらぬ」と、ここでも作者は読者に向けて、<31x19>の意味をヒントとして歌に詠んでいます。勿論「真木柱」の歌――
G412今はとて宿離(か)れぬとも馴れきつる真木の柱はわれを忘るな(真木柱)
『源氏物語』のキーワードである「かぎりとて」に準ずる意味をもつこの歌の重大さを忘れてはなりません。「御法」巻に至って「今は」「かぎりとて」の意味があらためて問題になるからです。
G552惜しからぬこの身ながらもかぎりとて薪(たきぎ)つきなんことの悲しさ(紫上21)
二条院での法要の最初の日、連れてきた孫の三宮をメッセンジャーとして、明石に贈った紫上の歌です。初めは敵対していた明石とは、明石姫君を育てて立派に中宮にした紫上は、若菜巻頭では明石と「源氏被害者の会」同盟を組むまでになっています。その明石の返し――
G553薪こる思ひは今日をはじめにてこの世にねがふ法(のり)ぞはるけき(明石21)
近い死を覚悟している紫上に、明石は、「法ぞはるけき」とこの日始まる「(御)法」が「かぎり」なく「はるけき」ことを約束しています。これからの六条院を支えてくれる4つの町の重要人物の一人です。花散里との最後の「契り」の歌2首(G554-5)は、さきに引用しました。こうして六条院の将来に、男性社会を相手に女性たちが結束して闘う見通しを得た紫上は、「いかまほしきは命なりけり」の一生を、不本意ながらも明るい将来を夢見て終えるのです。
9 各段最終第8巻の5巻――「花宴」「関屋」「胡蝶」「梅枝」「幻」、その関連性
全5段の各段は、ほぼどの第8巻も先行きに暗い兆しを残して終わります。まず「花宴」では東宮妃に予定されている弘徽殿女御朧月夜に源氏が惹かれます。「関屋」では、空蝉が出家し、藤壷・六条御息所と出家する女性のリストに加わることが、将来紫上の出家が問題になる前触れとなっています。「胡蝶」では、複雑な関係にさせられた玉鬘の存在を紫上に察知されながら、源氏はその欲望を隠せません。夕霧など次世代の若者たちも源氏の怪しい振る舞いに翻弄されて、右往左往させられます。「梅枝」巻は、そこまでの物語に区切りをつける大事な巻ですが、夕霧の妻となる雲居雁が詠う「かぎりとて...」の歌は、『源氏物語』の第1首と響き合って重大な意味をもっています。
G438かぎりとて忘れがたきを忘るるもこや世になびく心なるらむ(雲居雁2)
源氏にとってその行動倫理を怪しくする「なびく心」が男性一般の行動倫理の根幹にあるとき、雲居雁の放つこの一言は、『源氏物語』の主題(隠された真実[まこと])の鍵になることばです。源氏の一生は「なびく心」によって、少しずつしかし確実に崩壊してしまうからです。「梅枝」の末尾で物語全体にたいする「警告」を発した雲居雁も、夫夕霧が一条御息所の女二宮(落葉)に「なび」いたために散々な目にあいます。しかし、雲居雁も夫に反逆すべく、それまで紫上と明石のようなライヴァル関係にあった藤典侍(夕霧が最初に娶った、源氏の腹心の部下[惟光]の娘)と共同戦線を張るのです。ここに至って、女性問題は貴族のみならず平民の社会にも、間違いなく波及するのです。平安王朝崩壊の始まりです。
かくして、さきに言及したように、源氏の「雲隠」以降、内裏の外郭団体として、六条院の女性たちをはじめ、雲居雁・藤典侍、さらには二条東院の空蝉・末摘花、朝顔・朧月夜その他大勢の「反源氏」の女性たちが、反旗を翻す時代が到来する予感が確かです。
8巻を大きな意味単位とする5段階――序・破の序・破の破・破の急・急――は、「起承転結」の論理が最後に統合される第40「幻」巻で静かに幕を閉じます。本来は、これを嵐の前の静けさと感知した人によって、続篇は書かれるべきなのでした。