『源氏物語』の主題と変奏

『源氏物語』の主題と変奏

はじめに

 

 1

 

 永い間『源氏物語』は誤読されてきました。全54巻が一人の作者によって書かれたと考えて、そこに統一的な主題を見つけようとしたからです。しかし実際は、紫式部(以下「式部」と略称)が創ったのが「幻」までの41巻で、「匂兵部卿」以下の続篇13巻は、弟子の小少将という女房の作であることを、『紫式部集』が明らかにしていたのでした。 過去千年間、この「家集」が『源氏物語』54巻の成立過程を128首の歌で物語るミステリー(推理物語)であることが読み解けなかったのです。(拙著<『紫式部集』のちから相撲――メイキング・オブ・『源氏物語』>[2016、モチいふ叢書01]参照)

  紫式部自作の40巻(「若菜」巻は巻名が一つなので、上下に分かれてはいますが、巻(帖)としては1巻と数えると、従来第41巻とされてきた「幻」巻は、第40巻として扱うのが妥当)と「匂兵部卿」巻の間には、古来「雲隠」という巻名だけで本文がない部分があります。これは紫式部が自作の部分(40巻)と続篇の13巻を区別する手段として意図的に置いたもので、その理由は、小倉百人一首にもある式部の歌(『紫式部集』の冒頭歌)に使われた文言に拠っています。

   M001    早うより、童(わらは)友だちなりし人に、年ごろ経て行きあひたるが、ほのかにて、十月十日の                               ほど、月にきほいて帰りにければ(式部01)

         めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜(よ)半(は)の月影

      [Mのついた歌は『紫式部集』の歌番号、同様にGは『源氏物語』の歌番号]

 幼友達とめぐりあって、その人とはっきり見分けがつかない間に夜半の月が雲に隠れてしまい、月と競争するように帰って来てしまったと、その短時間の邂逅を残念に思う歌です。しかし、この歌は自作の『源氏物語』40巻の「意味(主題)」が読みとられることなく、隠れてしまったことの無念を詠う意図を隠してもいるのです。

 『源氏物語』の中で「まぼろし」という言葉は、初巻の「桐壺」と最終巻の「幻」の2巻だけに使われ、しかも歌の中に1回ずつ使われて、物語全体を俯瞰し全体を大きく括る、統一性を示唆する意味をもっています。「まぼろし」には見えない真実を探す「方策士」の意味もあり、物語冒頭と末尾で詠われる次の2首に、50年の永きにわたって展開する『源氏物語』40巻の作者が表現したい「意味内容(主題)」――焦点的観念F[ocus]とそれに附着する情緒f[eeling]――を読者に探索させようとする言葉ともなっています。つまり、紫式部が作った『源氏物語』40巻には、当時の平安貴族社会について、女性の立場からどうしても言いたいことを、なるべく永い年月に亘って言い続けたいという、隠された「意味内容(主題)」があったのです。明らかに短時間では片付かない、女性に対する男性社会の勝手気ままな扱いについてです。

  G006たづねゆくまぼろしもがなつてにても魂のありかをそこと知るべく(桐壺帝)

  G583大空をかよふまぼろし夢にだに見えこぬ魂の行く方たづねよ(光源氏、以下<源氏>と略記))

桐壺帝の歌は失った更衣の魂を探し、光源氏の歌は亡くなった妻紫上の魂の行方を探す歌ですから、ここに物語の首尾一貫性が見られます。式部は簡単には主題が見えない物語を読者に挑戦するかのように作り、作品が「芸術」として長生きできるように企んで見事な作品に仕立てました。

 『源氏物語』最大の皮肉は、源氏が最後に詠う「見えこぬ(紫上の)魂の行く方」がテクストに明示されていることです。なぜなら、紫上は第39「御法」巻で病苦をおして自らが育った二条院へ赴き、法華経千巻を奉納する法会を執り行い、源氏から贈与された二条院を死後の魂の「ありか」、自らの「寺」としたからです。

 「見えこぬ魂の行く方」がお膝元にあることを認識できない源氏は、『源氏物語』の主人公を妻の紫上に譲らねばなりません。作者が描きたかったのは、紫上の苦悩の生涯なのですが、この一事を読み解けない読者に、作者はもう一つの文学的手段(『紫式部集』に並べた128首の歌)によって、『源氏物語』の主題――源氏の不実による紫上の絶望と次世代に託す夢――が「雲隠(くもがくれ)」した経緯を「物語る」ことにしたのです。

 偶然でしかも残念なことに、続篇の作者は、紫式部より先に亡くなってしまいました。『紫式部集』冒頭歌の「童友だち」や、物語制作にあたって沢山の情報を提供してくれた夫藤原宣孝(のぶたか)も病死してしまいます。『紫式部集』の最初の5首は、「童友だち」「続篇の作者」「夫宣孝」の3人が、この『紫式部集』を編むまえに亡くなって(雲隠れして)しまった「あはれ」をも伝えています。[『紫式部集』のテクストは、南波浩編著『紫式部集』岩波文庫1972に拠っています。]

 ぼくが『源氏物語』続編の作者である小少将という女房を『紫式部集』のなかに見つけたのは2015年、いまから7年前のことです。ちょうどその千年前、1015年ころには式部も亡くなっていたようで、そのときから、式部の清書した決定稿が筆写され流布されていったようです。同時に『紫式部集』もコピーが始まったと思われますが、こちらは、『源氏物語』の歌ほどの面白みがない歌ばかり並んでいる「歌集(家の集)」のように見えるので、過去千年間、だれも評価しなかったことが、ぼくにとっては幸いでした。しかし、この128首を「構造signifier」分析してみたところ、だれも想定しなかった驚くべき『紫式部集』の「主題signified」――メイキング・オブ・『源氏物語』――54巻の成立過程が顕わになったのです。

 

2

 

 3作品の成立年代を以下のように推定して――

  1)『源氏物語』40巻(ca.1008)[ca.1008は推定年、<ほぼ1008年頃完成>の意味、以下同様]

  2)『源氏物語』続編(ca.1017)[作者小少将が亡くなったとされる年]

  3)『紫式部集』(ca.1017)

ここからは、『源氏物語』(ca.1008)40巻にある589首の歌と、『紫式部集』(ca.1017)の128首がどういう「構造signifier」をもっているかを、少しずつ解読していきます。

 「匂兵部卿」(第42巻)以降の続篇13巻を作った「小少将」(式部が『源氏物語』の作者ということで評判になり、道長の娘<中宮彰子>の家庭教師に雇われたとき[1008]、同僚になった年下の才色兼備の女房)が1017年ごろ病死したため、小少将が書き遺したいわゆる「宇治十帖」と続篇の書き出し3帖(「匂兵部卿」「紅梅」「竹河」)が式部の手元に遺されました。 

 小少将の死は、『紫式部集』の第126歌として報告されています。

    M126   小少将の君の書きたまへりしうちとけ文の、物の中なるを見つけて、加賀少将のもとに

                              (式部S88)[加賀少将は式部の同僚で親戚の一人]

        暮れぬ間の身をも思はで人の世のあはれを知るぞかつは悲しき

    M127  誰か世に永らへて見む書きとめし跡は消えせぬ形見なれども(式部S89)

    M128   返し(加賀少将)  

        亡き人をしのぶることもいつまでぞ今日のあはれは明日のわが身を 

 この歌を最後に『紫式部集』は終わります。小少将が書き遺した「うちとけ文(ぶみ)」(親しい者同士の手紙のやりとり)が表層的な意味ですが、ここでは小少将が密かに書き次いでいた『源氏物語』の続編、つまり「正篇」に<うち溶け>るべく作られた小少将作の「続篇」を、式部は遺品のなかに見つけたという報告を親しい加賀少将にしています。M127では、誰が生き長らえて、人が書きとめた跡を消せない形見として見てくれるだろうか、と自作も含めて物語作者の悲しい運命を嘆きます。その答えM128は、亡くなった人をいつまで偲ぶことができようか、明日は自分があわれな身になるのだから、というのです。

 『紫式部集』最初の5首は、以下のようです。(上記引用の冒頭歌を省略)

   M002   その人、とほきところへいくなりけり。秋の果つる日来たるあかつき、虫の声あはれなり。(式                             部02)

                 鳴きよはるまがきの虫もとめがたき秋のわかれや悲しかるらむ

   M003  「箏の琴しばし」といひたりける人、「まゐりて、御手より得む」とある返事に(式部03)

       露しげき蓬が中の虫の音をおぼろけにてや人のたづねん

   M004   方違(かたたが)へにわたりたる人の、なまおぼおぼしきことありて、帰りにける 早朝(つとめ                                    て)、朝顔の花をやるとて(式部04)   

                       おぼつかなそれかあらぬか明け暗れの空おぼれする朝顔の花

   M005   返し、手を見分かぬにやありけん(宣孝01)

       いづれぞと色分くほどに朝顔のあるかなきかになるぞわびしき

 父親の赴任地九州(とほきところ)へ行く童友だちの声は「鳴き弱る」と表現されて、遠からぬ病死が仄めかされた歌(M002)の次は、奏法が琴のなかで一番難しいとされる中国伝来の「箏の琴」を手習いたいと、弟子入りを望んできた人への式部の返歌です。わざわざ「露しげき蓬が中」へ来て習おうという貴女は、「おぼろけ(いい加減)」な動機ではありますまいね、という念押しです。

 実際「箏の琴」の名手だったという式部ですが、琴の奏法伝授を比喩として、実はこの弟子入りを望んだ人がまさに『源氏物語』続編の作者、『紫式部集』の中に小少将として描かれる女房なのです。そのわけは、この第3歌がこの歌集の末尾からの第3歌、つまり、さきのM126と照応して(初めと終わりの同じ位置に置かれて)いるからです。前述の「まぼろし」の歌2首が『源氏物語』の初めと終わりの照応する位置に置かれていたのと同じ作りです。このような作品の首尾一貫性を主張しつつ、表層的には「おぼろけ」に見えるような作りが、式部の真骨頂だといえるでしょう。過去千年もの間、だれにも読み解けなかった『源氏物語』40巻と『紫式部集』の芸術作品制作手法がここにあります。

 M004とM005は式部と宣孝との結婚前のやりとりです。「方違へ」を理由に式部(遠い親戚)の家に泊まった宣孝ですが、式部に対して何やらいかがわしい振る舞いに及びます。翌朝、朝顔を歌に添えて前夜の行動を糺すのですが、宣孝の返事は、どなた(姉か妹[式部]か)のお手(筆跡)が判りかねて、とあいまいにごまかされてしまいます。求愛なのか悪ふざけなのかはっきりしない行動ですが、『源氏物語』では「朝顔」という女性は源氏の求愛をきっぱりと拒否する意思の固い女性として描かれています。ですから、ここではひとまず宣孝の求婚に「空おぼれの」(返事のしようがないがちょっと惹かれた)式部がいることになります。

 ここまでの5首が『源氏物語』の最初の5首と比定される歌の配置であることに気づいたとき、「おぼろけ」「なまおぼおぼしき」「空おぼれ」のように使われたことばが、<いい加減>には使われていないことが判ります。『源氏物語』の第2首から第5首――

  G002 宮城野の露吹きむすぶ風の音に小萩が元を思ひこそやれ(桐壺帝)

  G003 鈴虫の声のかぎりを尽くしても長き夜あかずふる涙かな(命婦)

  G004 いとどしく虫の音しげき浅茅生に露おきそふる雲の上人(更衣母)

  G005 あらき風ふせぎしかげの枯れしより小萩がうへぞ静心なき(更衣母)

 第3首の「鈴虫の声」が女性(桐壺更衣)の悲しみの声であるとき、この歌を5首の中心に据えていることが式部の作り方であることが判ると同時に、『紫式部集』の小少将の弟子入り要請が、芸術的な手法(家集の第3首)として、事態の核心にあることを知るのです。「声のかぎりを尽く」すことが、『源氏物語』40巻の作者(ひいては主人公紫上)のスタンスです。式部に弟子入りした続編の作者も、「声のかぎりを尽くす」ことが求められます。

 そこで『源氏物語』の冒頭歌――

  G001 かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり(桐壺更衣)

    いとかく思へたまひましかば

     (ここが限りとお別れする悲しい道ですが、わたしが行きたいのは生きる道だったのです

              本当にこのように思っておりましたなら[生きてゆけたのに・・・・・・])

 この歌の重みは、当時の女性が生きがたい世をなんとか生きたいという思いを代弁しているところにあります。死ぬときは桐壺帝と一緒にと更衣は約束していたのです。しかし、死の間際になって、その約束が間違っていたと気づいたときは、生きる道はすでに閉ざされていたことを嘆く歌になっています。

 驚いたことに、現代の注釈本はほとんどどれも、この更衣の嘆き――いとかく思ひたまへましかば――という重大な一句の解釈をまちがえています。

 い)こんな事にならうと豫て思ひましたなら、もつと申しあげたでございませうに(池田亀鑑『全書』1946)

 ろ)ほんにこんなことと存じておりましたら(玉上琢也『評釈』1964)

 は)ほんとに、このようなことになろうとかねて存じよりましたなら(『全集』1970)

 に)こんなふうになると存じていましたならば(『集成』1976)

 ほ)まことにかように考えさせていただいてよいのであったら(生きる希望が満たされるなら嬉しかろうに、               そうでないのは悲しく無念だ(『新体系』1993)

 へ)初めからこうなることが分っていたら、なまじ帝のご寵愛をいただかなければよかったろうに(『新全 

            集』   1994)

 と)こういう生死の瀬戸際に立つ前に、そのことがわかっていたならば(『源氏物語注釈』CD版2019)

 「ましかば・・・まし」という反実仮想の表現ですが、最後の<と)>が辛うじて正しい解釈に近づいています。しかしこれとて、「いとかく」を<こういう生死の瀬戸際に立つ前に>は、あきらかに他の注釈に影響されてまちがっていますし、<そのことがわかっていたならば>も、<そのこと>と他人事のように聞こえる<その>ではなく、<この>でなければならず、さらには<わかっていたならば>も、原文の「思ひたまへ」とは違和感があります。<わかる>と<思ふ>は認識か思考かの違いなので、結局自分の浅はかな過去の考えを悔やんでいるという意味になりません。

 現代の注釈本が『源氏物語』の最初の歌をこのように読み違えていることは大問題です。この歌に『源氏物語』の主題が隠されているからです。「なまじ帝のご寵愛をいただかなければよかったろうに」などとしたら、『源氏物語』が崩壊します。何とか生きようと懸命に生きた紫上は、あきらかに桐壺更衣の遺志を引き継いだ女性だからです。

 このように、「構造signifier」分析をしない注釈は、まったく「主題signified」を見つける手段をもっていません。『源氏物語』も『紫式部集』もその第1首に主題にかかわるヒントがあるのに、作品全体を「構造signifier」的に見渡す視点をもっていないので、重大な「意味signified」が読み取れないのです。 

 

3

 

 短いテクストの「羅生門」(原稿用紙で32枚)や「檸檬」(26枚) から1800枚に及ぶ『源氏物語』40巻まで、作者が言いたいことを如何に言うかは各テクストの「構造signifier」が鍵を握っています。『三四郎』では「羅生門」・「檸檬」同様、テクストが5つ(28x4+5=117新聞連載回数)に大きく区切れる部分として「構造signifier」化されています。そこで、連載第112回の『ハムレット』幕間がきっかけとなって、最終部分の連載5回が主人公変身の大事な最終段階となっているのです。

 『源氏物語』の場合、漱石が「意味内容signified」の二つの要素とした「焦点的観念Fとそれに附着する情緒f」は、40巻に構造化(8x5)された語り文がFを、589首(31x19)に構造化された歌がfをそれぞれ担っていることになります。

 主人公紫上が全5段(各8巻)の第1段第5巻に導入されたあと、第2段第5巻の明石、第3段第5巻の五節、第4段第5巻の玉鬘、第5段第5巻の女三宮というように、各段第5巻に導入された4人の女性に源氏が「なびく心(うつる心)」をもつことによって、紫上は痛めつけられます。その他にも源氏が関わる女性がたくさんおり、藤壷中宮の姪とはいえ源氏以外に後ろ盾がない紫上の心の負担は計り知れません。「源氏の不実による絶望」から何度も出家を願って許されず、心身共に疲弊衰弱してゆく紫上が第5段に描かれ、第39巻に至って紫上が最後に源氏に対してとった一世一代の抗う行動が法会(「御法」巻)です。出家を許されないままですが、源氏から伝領した二条院を自ら死後の魂の在処(寺)とするのです。

 源氏はもとより法会に参加した人々も、明石(G553-4)・花散里(G555-6)の二人以外に紫上のとった行動の意味を認識できた人はいません。紫上は密かに六条院が女性の砦となるようこの二人(のちに明石中宮[G558]と秋好中宮[G562]が加わる)にその将来を託すのです。亡くなる前に、自らが六条院で育てた孫の三宮(明石中宮の第3皇子)に遺言し、六条院に住んで紫上が育てた紅梅や桜を愛でるように促します。

  大人になりたまひなば、ここ(六条院)に住みたまひて、この対の前なる紅梅と桜とは、花のをりをりに心           とどめて遊びたまへ。さるべからむをりは、仏にも奉りたまへ。

 このように紫上のとった最後の行動は、己の死後六条院が女性の砦として男の社会を変革するように希求するのです。しかし、「三の宮は二条院におはします」(「匂兵部卿」)という続篇の作者が犯した誤読によって、紫上が希求したことがすべて闇に葬られてしまうのです。続篇の冒頭にある一文が、「幻」と「匂兵部卿」が地続き(同一作者)という前提で読まれた結果です。

  紫の上の御心寄せことにはぐくみきこえたまひしゆゑ、三の宮は二条院におはします。 

 (紫上が特に心してお育てになったので、三宮は二条院にお住まいです。)

 正篇第39巻「御法」に描かれた法会は、紫上をはじめ源氏・花散里・明石・三宮たちが六条院から二日間の行事のために二条院に赴いて執り行われました。ところが、続篇の作者は、紫上が法会前より二条院に滞在しており、そこで三宮を育てていたと読んでしまったのです。ですから、法会のあとも、紫上や三宮は二条院に居残って、そこで亡くなったという解釈です。

 しかし、法会を準備する段階で、紫上をはじめ源氏も三宮も六条院東南の春の町に住んでいるのですから、法会の2日間だけ六条院から二条院へでかけたのです。その証拠は、法会を準備中の次のくだりに明らかです。

  年ごろ、私の御願にて書かせたてまつりたまひける法華経千部、急ぎて供養じたまふ。わが御殿と思す二条           院にてぞしたまひける。七僧の法服など品々賜す。・・・(「御法」)

紫上が何年もかけて準備した法華経千巻を仏に供える行事が2日間の法会です。「源氏より伝領した自分の御殿とお思いの二条院で(法会)をなさるので(驚きま)した。」と語り手が驚きの声を上げます。この「けり」はいわゆる「気づきのケリ」という助動詞で、ここでは語り手が意外な事態に気づき、驚いているのです。これに続く文――七僧の法服など品々賜す――によって、この場面で法会はまだ準備中であることが判ります。「六条院でも法会はできるのに、わざわざ二条院でなさるのだった」と気づいたというのです。(こういう「気付き」は現代文にも、「あ、今日は夕方約束があった」と気づく文と同じで、時間的に「約束」はまだ現実に履行される以前の発話ですが、約束はすでに過去になされていて、発話の「イマ」回想されているのです。)

 もし、この時点で紫上がすでに二条院に滞在中なら、語り手は驚く必要がありません。健康の優れない紫上が、六条院から二条院へ法会のために出かけるという事態に、語り手は「六条院でもできるのに、なぜ?」と驚きの声を上げたのです。「法服」を七僧たちに与える記述が続くことから、明らかにまだ法会前の時間です。そのあと、「花散里と聞こえし御方、明石なども渡りたまへり」とあり、紫上・源氏は勿論のこと、「明石なども」二条院へお渡りになっている。そこで、「三月の十日なれば、花盛りにて、・・・」という法会当日の描写が始まります。

 当然2日間の行事のあと、参列者はみな二条院をあとにします。

        事はてて、おのがじし(銘々が)帰りたまひなんとするも、遠き別れめきて惜しまる。花散里の御方に、

               G554絶えぬべきみのりながらぞ頼まるる世々にと結ぶ中の契りを(紫上22)

  御返り、

    G555結びおく契りは絶えじおほかたの残りすくなきみのりなりとも(花散里5) 

   紫上が結ぶこの世の最後の契り相手は花散里です。紫上は、ここで花散里を自分が死んだあと、六条院の主導者的立場を花散里に委ねています。 

 「遠き別れめきて」とありますが、「永遠の別れのようで」は、同じ六条院へ帰るのですから、二条院に残る紫上と六条院へ帰る花散里の別れと読んではなりません。ここはこの二人の「この世の別れ」で、紫上は遠くない死を意識してのことです。

 

4

 「夏になりては、例の暑さにさへ、いとど消え入りたまひぬべきをりをり多かり。」以降は六条院へ帰還してからの出来事です。紫上を明石中宮が見舞い、紫上が三宮への遺言し、そして亡くなる場所は、すべて六条院東南の町の東の対であって、テクストに二条院が描写される場面は、法会の二日間以後、物語40巻の末尾までありません。しかし、歴史的に、(続篇の作者が三宮を「二条院におはします」と書いてしまったために、全54巻として『源氏物語』が成立したあとは、ほとんどの注釈が紫上が二条院に滞在し続けると読んでしまったのです。続篇冒頭の一行が後世に決定的な影響力を及ぼした結果です。『源氏物語』全54巻が式部の作とする前提で正篇40巻を読んではなりません。

 「御法」巻法会のあと、「夏になりては・・・」とある最初の出来事は、紫上を明石中宮が見舞う場面ですが、「中宮この院にまかでさせたまふ」とあり、「この院」を二条院と解釈した続編が世に出たあとでは、とんでもない混乱が生じてしまいました。「東の対におはしますべければ、こなたに、はた、待ちきこえたまふ」(「東の対[六条院春の町の紫上の居所)に(中宮が)おいでになるはずなので、(紫上も)こちらで、やはり、お待ち申しあげる)というのですが、『新全集』(第4巻、p.500)では、「東の対にご滞在とのご予定とて、上もやはりそちらでお待ち申しあげられる」とあります。この注釈では、二条院「東の対」に中宮が滞在予定なので、紫上は常住する西の対から東の対(そちら)に移動してお待ちするとの解釈です。その結果、中宮の「おはします」ことを、「ご滞在予定」と曲解せざるをえなくなり、また、「こなたに」も「そちらで」(二条院東の対で)と、紫上は病人なのに西の対から東の対へ中宮を出迎えると解釈しなければならなくなります。

 育ての親(紫上)を見舞うのに、中宮といえども自分が滞在するはずの東の対まで病人に出迎えさせることになっては、物語が崩壊します。そんな病人を無視する中宮が存在したのでは物語になりません。ここは、普段なら中宮の退出先は六条院春の町の寝殿なのだけれども、紫上を見舞うとあって、中宮が直接東の対においでになるという、病人を慮っての行動です。

 続篇の作者が犯した誤読の影響が甚大だったため、「御法」とそれに続く最終「幻」巻の2巻では、過去千年の読者の注釈が二条院か六条院かで右往左往しています。1017年ごろ(1014~17年と小少将の没年は確定できない)に式部によって「続篇13巻」が加えられた『源氏物語』54巻は、このようにして、「構造signifier」も「意味(主題)signified」も曖昧模糊なテクストになってしまいました。幾多の矛盾に対処できない注釈者たちは、「古今明解なし」とする池田亀鑑『全書』(第五巻1954、p.110)の最終判断に従って今日に至っています。67年間もぼくたちは『源氏物語』の深層(真相)を探りあてられなかったのです。

 こうした事態も式部には予測の範囲内でした。『紫式部集』には式部と小少将の間で続篇の内容に関して3回の歌のやりとりがあります。いずれも続篇の書き出し部分(「匂兵部卿」「紅梅」「竹河」の3巻)について、小少将が執筆中の物語の出来具合について式部に伺いを立て、それに式部が答える歌で、以下の6首です。

  S071なべて世の憂きに泣かるるあやめ草今日までかかる根はいかが見る(小少将04)

  S072  何事とあやめは分かで今日もなほ袂にあまるねこそ絶えせね(式部049)

  S073天の戸の月の通ひ路鎖さねどもいかなる方にたたくくひなぞ(小少将05)

  S074真木の戸を鎖さでやすらふ月影になにをあかずとたたくくひなぞ(式部050)

  S116雲間なくながむる空もかきくらしいかに偲ぶる時雨なるらむ(小少将06)

  S117ことわりの時雨の空は雲間あれどながむる袖ぞかわく世もなき(式部082)

 全128首の歌のうち、式部が89首、夫の宣孝が11首、小少将が8首、寡婦となった式部に言いよる男5首で、ほかは道長が3首、2首2人、1首が8人です。小少将の8首という歌の多さによって、小少将が『紫式部集』のなかで重要な人物であることからも続編の作者と知れるのです。

 S071では、憂き世を物語る並びの巻々であるわたしの今日までの「根(材料)、<音>=物語(「匂兵部卿」以下の3巻)」を先生はいかがごらんですか、という問いに――

  S072何をお書きかよく判りませんけど、持ちきれないほどお持ちのネタを切らさないように

と言う式部の返事です。式部には自分の書いた物語を弟子が誤読してしまったことが、「匂兵部卿」巻冒頭に明示されている以上、この脱線の事態は修正の余地がありません。

 次のやりとり(S73-74)では、小少将が「私は源氏の子孫の物語を続けていますのに、先生はどこで筋がが通らないと仰るのですか」と訊き返しています。式部は、「物語の真実(主題)を明かせてよかったと思っているのに、どうしてお分かりにならないの」と、突き放します。三宮を二条院に住まわせたり、愛でることを三宮に恃んだ「紅梅」を、小少将は「紅梅大納言(女三宮と密通した衞門督の弟)」を中心人物に物語を動かそうとするなど、式部に受け入れられるはずがないのです。これでは式部(紫上)が大事に扱おうとした正篇の「紅梅」のイメージが台なしです。

 これほど正篇から逸脱した続篇の書きぶりから式部に明らかなのは、文学という芸術の主題を読みとることの難しさであり、真の「芸術(作り物語)」は作り手の資質如何では達成できないということです。源氏に本当の自分が見えないように、小少将には『源氏物語』40巻の「真実(主題)」が読めないことが明らかなのでした。

 家集も終わりに近く、小少将は師匠に(S116)「空が<かき暗>すように、私は物語を書きあぐねていますが、どう私は忍びつつ書き続ければいいのでしょう」と、他人に漏らさず書き継ぐ不安を訴えています。式部は、(S117)「どうしようもない時雨にも希望の雲間はあるものの、私の袖も乾くいとまもありません」と、弟子の作物に涙して、続篇の成果には絶望するしかありません。

 こうした続篇の進捗状況が、小少将の死後現実となったとき、式部には一つの選択肢しか残されていませんでした。それは、「雲隠」という巻名だけの1巻を自作40巻のあとに挿入して自他のテクストを区別し、将来の読者に向けて、正続2篇を読み比べてもらえるよう全54巻(「若菜」上下巻を2巻と数えれば全<55>巻)を『源氏物語』として世に遺すことでした。

 

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 『源氏物語』は、正篇40巻の数理(<40=8x5>という<8巻ずつ5段に並べる「焦点的観念F」と、<589=31x19>という31首を19回並べる歌の「情緒f」)が見事な構造体として、作者式部が言わんとする主題を鮮やかに表出しえています。続篇の13巻にはそうした数理はみつかりません。はじめの3巻は、前項で式部が指摘した(S072)ように、何が書きたいのか「焦点的観念F」が「薫・三宮」「紅梅大納言」「玉鬘の娘たち」と3方に分かれて纏まりません。続篇の主人公を誰にしようかという基本方針も定まらないまま、書き出してしまったことが明らかです。

 皮肉にも、「匂兵部卿」巻最初の歌――

  G590おぼつかな誰に問はましいかにしてはじめもはても知らぬわが身ぞ(薫)

その通りに進行する物語ならば、最初から「主題」がないことを宣言してしまったことになります。

 正篇の桐壺更衣の歌(G001)と比べるべくもなく、はじめから出来損ないを広言したのでは、うまく纏まるはずもありません。式部にしてみれば、『紫式部集』第3歌で危惧したこと――「おぼろけにてや人(小少将)のたづねん」(「いい加減な気持ちで弟子入りしたいというのじゃないでしょうね」)――が、続篇冒頭で現実になってしまったのです。

 出来の善し悪しがこれほど明々白々なテクストを並べれば、読者はだれも読み違えることはないと確信したとき、『紫式部集』による式部の文学的な挑戦がなったと言えるでしょう。もしかしたら、続篇13巻を通読した式部が、「してやったり」とその不出来さが象徴的に意味づけられている薫の歌(G590)を「最高!でかした!!」と評価したとしても不思議ではありません。G001の『源氏物語』40巻の主題にかかわる桐壺更衣の絶唱との落差が甚だしいからです。文学をどう作るべきかを、図らずもこの2首は言い果せています。

 ということは、全54巻に『源氏物語』を纏めた式部は、続篇の冒頭の歌(G590)をみて、続篇の作者がその冒頭歌に主題に関わる意味を付与していないことを確信したと思われます。こうして始まる続篇が確固たる意味を提出しようとして書き始められてはいないことを。