『三つの純心物語 鴎外・サリンジャー・カーヴァー』を出版して、もうひと月が過ぎた。その間、大阪大学で行われた認知言語学会のパネル討論(9月16日)に参加して、日英語で書く文学の質の違い(主観vs.客観)を問題にした。本書第4章「日英語、ならびに日英文学――その本質的な差異」の根底にある日英語間の互換性のなさ(翻訳不可能論)についてだ。
発表の反応は、いきなり翻訳を全面否定する極論だから、当然反応は芳しくなかったが、全体で400人ぐらい集まったうちの25人くらいしか、ぼくらのパネルには来なかったことからも、その関心度は低い。これが、今日の日本の言語観の実態なのだから仕方がない。
十月初め、ノーベル文学賞がカズオ・イシグロに決まったときの、日本人の反応もヘンだった。イシグロのコメントも次は村上さんにみたいなことで、これは村上のひいきの引き倒しになりかねない。イシグロは日本語が解っていないし、村上も同様で日英文学の質の違いを認識していないのだから、これからは、日本文学が国際的な話題になるときに、いつも日英文学の互換性のなさは問題にしなければならない。その意味でイシグロの受賞は、ぼくにとってありがたい。
本書でも何度も繰り返したことだが、日本語の国際的な問題は、日本国の運営そのものに関わって、重要な論点・認識必須事項だ。憲法改正論議の前に、日本語で西欧的な法律文が書けないことを、日本の政治家は認識しなければならないのに、その論点はそもそもいままで問題視されたことすらない。科学的な論文が日本語で書けないことと、法律文が書けないことは同日の談でなければならないし、日本国の主張は西欧語でしなければ説得力がないのに、日本の政治家たちには認知されていない。
日暮れて途遠しの感あって、あすはまたひと月半の予定でアメリカへ行く。アメリカの友人たちを何とかぼくの議論に引っ張り込みたいからだが、これも成果は期待できない。
そう、今日(期日前)投票に行かなければ、棄権することになる。日本の「民主」主義は戦後アメリカから押しつけられたものだが、日本は「主義」を持ち出す前に、「民主(八百万ヤオヨロズ)」の国であったことを、みんな認識していない。日本は大昔から「自由と独立と己れとに満ちた」人々の住む国のはずだった。それが、西欧の主義主張に押されて、本来の自分たちを見失ってしまった。
投票したい党も人もぼくにはない、本当はぼくが立候補すべきかもしれないが、日本語・日本文学の専門家たちにも説得力がないぼくが、ほかの人たちを説得できるわけがない。結局、白紙投票をして参政権だけを行使することになる。大昔、東大入試に白紙答案を提出したことが蘇る。嗚呼。
あれからほぼ63年が経とうとしている。その間、日本語・日本文学について、世の認識は何も変わっていない。文科省の国語の教科書は、未だに日本語を英語と互換性のあるものとして、生徒たちを指導しようとしている。