その1: <100分de名著: こころ>(2013年4月放映)姜尚中・伊集院光・武内陶子
「誰も結ばれず,誰も幸せにならない、ある意味では救いのない小説」(NHKテレビテキスト、p.15)と姜尚中は言います。<漱石は『こころ』において、「自由と独立と己れ」の代償として登場した「自我の孤独 (淋しみ)」を描いた>(p.16)と読むのです。これを漱石の『文学論』の「文学内容」の議論<F+f>に当てはめれば、<Focus: 自由と独立と己れ>であり、<feeling:淋しみ>となりますから、これは<K>や先生の思いかも知れませんが、主人公(あるいは作品全体)の主題ではありません。ですから、200%の誤読です。
<漱石の小説は、いくらでも多義的な読みを許す>とも姜は言って、<この『こころ』も,教養小説としても読め,純愛小説としても読め,友情小説としても読め,同性愛小説としても読め、どうとでも読めてしまいます>(p.88-9)というのですから、なにをかいわんや、です。
どうしてこのように、作品全体が一つの<焦点>を結んでいないのか。いや、実際は<焦点的観念又は印象F >があるのに、それが姜やそのほかの読者に見つからないだけです。本当は、いろいろに読める作品に、ろくなものがありません。そんなのはみな出来損ないです。しかし、20世紀後半の西欧の文学概念は、いわゆる<ポストモダニスム>で、それはあらゆる権威を認めないという主張でした。ですから、作品も意味の多様性をもつのが当たり前で、作者が言いたいことなどは、二の次だというように、作者の主張は葬り去られました。「作者の死」後は読者の読みに任せればいいというのです。
そこで、『こゝろ』の<主題>はこれだという議論は、どうでもいいとするのです。しかし、実際は、作品をきちんと読めないことの言い訳でしかありません。では、なぜ主題が掴めないのか。その理由は簡単です。だれも『こゝろ』の構造分析を、きちんとしないからです。つまり、言語の本質で、文学の原理でもある「構造signifier」と「意味signified」の関係性が判っていないからです。「名著」と銘打つからには、芸術作品の中でも優れたものというレッテルを貼ったのですから、どこに芸術性があるかを検討するのが、こういう番組のそもそもの目的であるはずなのに、それができていません。
NHKという、高額な受信料をとって運営する、なかば国営の公共放送局に、文学が読めるディレクターが一人もいないということ、姜尚中のような文学の原理が判っていない学者に、人生経験が豊富だという理由で、いい加減な解釈をゆるしている状況に、いまや国家的な危機感をもって対処しなければなりません。番組の最終回にゲストとして登場する作家島田雅彦の<先生と青年はホモ>という読みに同調するなど、もってのほかです。
その2: <漱石『こゝろ』100年の秘密>(2014年9月10日放映)座談会:小森陽一、高橋源一郎、関川夏央、中野信子、鈴木杏、ディレクター羽根井信英
1980年代に日本のフェミニストたちが、『こゝろ』の先生は女性を蔑視していると批判したことがありました。先生は奥さんに真実を開示しようとしなかったからです。そこで小森は「奥さんーとー共にー生きる」青年という読みを提示して、フェミニストたちを黙らせたのでした。しかし、この座談会でも小森は、青年が奥さんを愛しているかどうかを問わない立場をとっています。小森が取るスタンスは、ポストモダニズム、つまりあらゆる権威の排除のためで、共生論のほかにも『こゝろ』の読みはあるというのです。理念的には姜教授と同じ立場です。
文学作品のテーマ(主題)は、いくつあってもいいという、さきの姜尚中の主張を、この座談会の出席者たちも、共通認識としてもっています。番組の冒頭は、先生と青年はホモかもしれないという、多義的な読みのスタンスをとって始まっています。先生の奥さんの静さんも「魔性の女」というレッテルが貼られ、人の「こゝろ」はもろいもの、いいかげんなものという意見が出るなどして、先生の自殺も、奥さんを青年に任せて、苦しい自分はフェードアウトしようとしたのだ、という見方が出るありさまです。
たとえば、先生が奥さんを道連れにしないのは、乃木夫妻の殉死に漱石が批判的だったからだと言うのですが、<妻が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなたに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい>という、先生の遺志を無視した見方です。漱石は乃木を批判しようとして、夫妻の殉死を小説の中にもちこんだような議論ですが、全く漱石の意図が判っていません。
実際、『こゝろ』で問題なのは、青年の「私」が先生の遺志を忠実に守ろうとしないことです。はじめにKが養父を裏切ったように、死の床にある父を見殺しにして、青年は東京行きの汽車に乗ってしまいます。しかも、「すべてを腹の中にしまっておいて」という先生の遺志を裏切って、遺書をすべて開示してしまいます。これは、倫理的に許されるでしょうか。先生が「腹の中にしまっておいて」という遺志は、青年にとって守秘義務があるはずです。
漱石は、作品の最後に読者に向けて、重大な問いを投げかけているのです。読者諸君、あなたはこの青年の行為を倫理的に承認できますか、と。ここにこそ、この作品の「主題」があって、読者がこの問いから逃れられないように、作者漱石はこの作品を作ったのです。読者の答えを必然的に求める『こゝろ』は、ですから、この遺書では終わらない「オープンエンディング」(読者に向かって問いを発している)小説です。この座談会の面々は、しかし、漱石の最後の問題提起に何の関心もありません。
これでは漱石が悲しむでしょう。実際、漱石の<焦点(的観念又は印象)F>は、その最後の一文に結ばれているのです。これに答えを出すことが『こゝろ』の読者に課された仕事なのに、だれもそうしようとしないのです。
その3: NHKの高校性向けラジオ講座「こころ」(2015)
講師の鈴木一史は、2時間40分を費やしての最終回の最後に、「こころ」の<表現の面白さ>ということで、「先生と私」第35回にある奥さんの言葉を引用します。
<……まあ何遍おっしゃるの。後生だからもういい加減にして、おれが死んだらは止して頂戴。縁起でもない。あなたが死んだら、何でもあなたの思い通りにしてあげるから、それで好いじゃありませんか>
しかし、どこが面白いのか受講者に説明することなく、鈴木は講座を終えています。漱石はこの奥さんの言葉が、「主題」にとって、重要なヒントとなることを、「先生と私」の終わりに近いところで示唆しているのです。ですから、漱石が読者にココだけはしっかり押さえてもらいたいと、大切にした想念が、ことごとくないがしろにされています。
なぜでしょう。くどいようですが、だれも小説全体の「構造signifier」に目を向けないからです。それ故に、肝心の「意味(主題)signified」が捕まらないのです。ぼくの答えは、これから出版する『漱石のどんでんがえし』(いまのところ仮題)で証しますが、みなさんも是非ご自分の答えを出してください。